何にでも学びはある?
どう思う?
指示されたことに不平不満を言う人などに対して、言われるセリフである。
ムッとすると同時に、まあそうかもしれないとも思える。
しかし、本当に何にでも学びはあるのか?
その答えはYESでもありNOでもあると思う。
学びはある
注意深く洞察すればそれなりに学びはある。
例えば掃除なんかでも、
利用者の視点から心地いい環境を生み出すためにはどうすればいいか、それを最小限のコストで実現するにはどうすればいいか、など考えることもできる。
このように些細なことからでも学びを見つけることできるし、それは確かに大事なことだ。
しかし、冒頭の私の答えを正確に表現すると、
「何にでも絶対的な学びはあるが、比較的学びの多いものも少ないものもある」
である。
でもでも
極端な例ではあるが、
ひたすら掃除ばかりさせられる営業マンとひたすら営業の経験を積んだ営業マン、この二者のどちらほうが学びは多いか?
清掃員としての学びが多いの前者だが、営業マンとしての学びが多いのは圧倒的に後者だと思う。
掃除もできない営業マンは役に立たないという見方もあるかもしれないが、
それは営業という経験を通じて気づくべき事柄である。
掃除ができるから営業ができるのではなく、営業ができるためには掃除もできる必要がある(かもしれない)ということのはずだ。
そして、この学びを得るのはおそらく後者の方である。
選ばなきゃ
何にでも学びはある。
しかし、その言葉から自身が認めているように、わざわざそれをやる必要はない。
学びは何からでも得られるのだから。
(多様な経験を積むべきだというのはまた別の話)
得ることができる学びの量が相対的なものである以上、
大事なのは何を得ようとしていて、いかにそれを最大化するかだ。
行動の選択肢の中から、思考してその判断を下さなくてはならない。
言い換えれば、何にでも学びがあるという主張は、ただ優劣をつけずに、思考を停止させてるだけとも言える。
おまけ
ちなみに、この言葉は発言者の真意を実は表していないかもしれない。
学びなんて全くなく、押し付けるために諭しているだけなのかもしれない。
実行者が気づいていない、学びが最大化される真の選択に導いているのかもしれない。